昭和42年05月23日 月次祭



 おかげを頂きまして、いよいよ、神様をわからせて貰うおかげを受けないと、神様が分らない、その神様が段々分からして頂く様になると、是は おかげだけではいけない、この神様のおかげを受けて、御徳を受けなければならんと、云う事が分って来る。そのおかげと御徳を受けさせて頂いてこそ、信心させて頂く者の値打ちが、信心頂く者の値打ちは、おかげと御徳を受けて行く事にあるのです、その御徳と言う事は、色々御座いますけれども、私の云うのは御神徳で御座います。
 御神徳を受けていかなければなりません、御神徳を受けて行く信心、御神徳とはどう云う様なものかと云うと、天地の親神様のお働きと言うものを無限に、しかも、何時々までも現していけれるという働きを御神徳という。御神徳を頂きたい、徳者というものは、そういう神様の働きを、現していけれる人の事を徳者という、いわゆる御神徳家というのは、そう言う様な事だと思う、ですからその御神徳を、お互いが信心をすれば、誰でもおかげを受ける事が出来ると仰る、みてるという事が無い、誰でもと仰る、誰でもという事なんだけれども、信心をすればである。
 信心をすれば誰でも受ける事が出来る、信心というのは真心になる事であり、神様を信ずる心が いよいよ強くなる事である。いよいよ神心になる事、そういう信心が一つ一つ身に付いていく、神心の厚い私にならせて貰う、段々どの様な事があっても、起ってまいりましても、御神徳を受けてまいりますと、身に徳を受ければ、心配はないと仰います、身に徳を受けてまいりますと、心配が段々なくなっていく。それは神様の働きそのものを、信じるからで御座いますよ。
 神様の働きを信じる事が出来るから、どの様な場合でも、心配せんでも済むので御座います。それには、いよいよ真心を追求していく信心を、そういう信心をさして頂けば、誰しもが御神徳を受ける事が出来る、いろんな場合に自分の真心が、欠けているという事が分ります、本当にいよいよの時に大抵神様を信じておる様に思うけれども、青なってびつくりしておる、驚いておる。
 神様を信じておるというても、この程度の事だと、いよいよ神様を確信させて頂けれる、信心の修業は無いものかと、それから又、神様をいよいよ信ずる修業を一段と、進めさせて頂く、同じ腹が立ちましても、同じ情けないと思いましても、悲しいと思いましても、その悲しみは、もう過去の私の悲しみではない。過去の私の腹立ちではな。言うならば、神様のお悲しみ。神様のお腹立ち、そういう、例えば腹立ちが出来るような信心、その意味は分るでしょうか、人から馬鹿と云われた様な事で腹が立つ、それなんかでも、段々おかげを頂いて行。
 まだ人が馬鹿と云うてから腹立てる時はまだ人間なんです。いうなら腹かくけれどもです、神様の悲しみ、神様の腹立ちと思われる様な、是こそが神様の腹立ちであろうかと思われる様な腹立ち、欲というても、あれが欲しいこれが欲しいという欲ではなくて、それは欲しいには欲しいのですけれども、それこそ神様が欲しなさる程の御徳、欲というものが、自分ながら感じる。
 私もこんな事を感じる、自分ながらも、誇大妄想じゃなかろうかと思う様な事が有る、夢というか、雲の様に広がって行く、しかもその雲の様な願いというか、欲望というかそれがひとつひとつ成就していく、それが花になり実になって行くと言う事の楽しみ、喜び、信心をさせて頂いて、お互いがまず、おかげを受けなければなりません、おかげを受ける事によって、神様の働きを知る様になる、所が私共が、ここにです、おかげから、おかげに終始する信心。
 おかげを受ける時だけお参りをして来る、何か困った時だけお願いにくる、いや毎日お参りしておるけれども、ただ自分の小さな願い、目先の小さい願いを満たして頂きたいばっかりに、信心が続けられておると言う様な信心、そういう信心では何時迄経っても、おかげを受けるに致しましても、御徳を受ける事は出来ません、そこで先ず皆さんが、おかげを受けなければなりません、おかげを受けるというてもですね、それは願う氏子におかげを授けると仰せられますから。 
 願えばおかげを下さるのですけれども、それは信心の「し」の字もわからない氏子の事、初めてお参りをすると言った様な人達の上にです、何にも云わん何にもいらん、今日でも四、五人の新しい方がお参りに見えました。此頃毎日新しい人がお参りになります、その方達には私は多くは語りません、向こうの述べられる所の様々の欲望、様々な願いと言う物を聞かして頂いて。
 そのおかげが、どれも是も成就すると云う事はなくても、あゝ是は神様の働きだろうか、是が神様のおかげであろうと思われる様な、おかげの印を先ず見せて貰なさい、そして是がおかげの印だと 自分で感じなさったら、また出ておいでなさいというて、二度目、三度目には話を聞いて、助かると仰るその話を、皆さんにしてさし上げる、ですから、矢張り神様を先ず分らなければ、だから、おかげを頂き、頂きでも良いから信心の方も進めて行かなければならない。
 この二十六日は久留米の教会、私共の親教会の親教会に当たります、初代石橋松二郎先生の二十五年の式年祭が奉仕されます。御徳と言う物は、成程残るもんだなあと云う事を感じますおそらく、二十六日はあの広いお広前を、あの境内を埋め尽くす程の人達で御座いましょうと思いますが、とにかく、初代の御徳にあこがれを持っている人達が集まる訳なんです。教会そのものに、御大祭なら、御大祭という時に。そんなに集まるかというと、今はそうではないのです。
 けれども初代の何かという時になると、人が沢山集まる。御徳です。成程尽きぬおかげと言う物がです、尽きぬ御徳と言う物が、身に受けておられた印なのです、だから御徳を受けたからというて、必ずしも自分の教会に、又は自分の子供の上に現れるとは限らない、それは例えて云うならばですね、御徳というのは、どう言う物かというと、丁度地下に埋まっている様な物。
 露出していない、ですからそれを掘り出そうという気持ちにならなければ、その御徳を受ける事も、御徳を現す事も出来ない、それを掘らせて貰う時にです、もうすぐそこには親の御徳が埋まっておる、何かという時には、やはり大変な御比礼、勢いというものが感じられる、まさしくそれを御神徳であると思うそういう意味では、私共は二十六日の霊様の御祭には、ここから沢山おかげを頂きたい。
 御徳で御座います、金光様にお願いなさった所、金光様が石橋先生の、四神様からお受けになっておられた御教えを、お書き下げになられた。勿論お願いなさったそうです、そのお書き下げになりましたものが、色紙又は短冊になって、それを偲び草として、参拝者、玉串料を奉られた方達に限って、お分けになると云う事で御座います。金光様のお書き下げが頂ける、金光様のお書き下げが頂けるから、お参りするのじゃないのですが、結局その御徳に触れて来ようというので御座います。
 初代の親先生の御徳の片鱗にでも触れさせて頂いて、御徳とはこう言う物かと、甘木の安武先生が、まだ御信者時代に初めて教祖の御大祭に、御本部にお参りになられた時に、あの境内を埋め尽くされた人達を見てから、人間も色々な俗事もあるもんだなあと、亡くなった時には、それこそ全教上げて、国を上げてと言う様な国葬とか、町葬とか言う様な葬儀を受ける人もあるけれども、それが年々再々素晴らしい御祭になって、現われて行くと言う事は、なんという素晴らしい事だろうか、是が御徳と言う物であろう、折角人間に生れたのであるから。
 御徳を受ける為の信心をさして頂こうと、初めて教祖大祭にお参りされた時に、それを実感されたという事で御座います。ですから、着眼点が違う、私共と、御本部お参りをしても、唯もうあの時はお参りが多かった、多かったというだけで、帰って来る人もある、そういう人間としての一番大事なもの、それは御徳を受けて行く事であると思う。その御徳というのは、天地の中にあります所の様々な働き、人間が幸せになって行く為には、様々な物が必要、物だけではない、金だけではない。
 心の上にも形の上にも必要な、そう言う物を天地は一杯お持ちになっておられます、無限に私共に供給しておられます、それを現すという事が御徳、それを現し得る所のおかげ、しかもそれを限りなく現していけると言う事。恐らく金光教のある限り教祖の神様、言わば秋の御大祭は教祖の神様の経ち日でもある、金光大神、永世の祭日と、生前から自分の亡くなられる日を、御祭日として定めておられた、初めの間は本当にささやかな御祭であったでしょうけれども.
 それが年々再々、あゝした賑やかな御祭の形を取って来る様になる、御霊地え 御霊地えと、御本部え御本部えと人が集まって。教祖の御徳を、御比礼に欲しようとする人達が集まり、沢山の人達が、その教祖の御教えによって助かって行く事が出来る、是は久留米教会初代の石橋先生の事でもそれが云えると思う、おそらく金光教ある限り、久留米のある限り、こと石橋先生の事に限ってはです、いよいよ御徳を発揮しておいでになられる事であろうと思います。限りが無い御徳というのは。
 そういう御徳を目指しての信心、そこで私共、信心が分らなければいけない、先ずおかげを受けるという手もある、「おかげを下さい」「それなら私の云う事を聞くか」と「どんな事でも聞きます」と 例えば申しますね、子供に何かねだられる、親はただではやらぬ、お掃除のひとつでもして来いと、もう少し云う事を聞けと、云う事を聞く。是からは云う事を聞くと言う風に子供が申します、それなら買ってあげましょうかと、云う事になって来る様に、おかげを受けるにしてもですね。
 矢張り、ここのところを守らずしてです、一番初めのおかげの印だけを頂く、例えば願う氏子におかげを授けると仰せられる所の、おかげだけではなく、そういうおかげはですね、必ずあれは、ふが良かったんだろうと云う事になって来るのです、ですから、そういうおかげではなくて、願う氏子におかげを授け。そして、後に理解申して聞かせと仰る、その御理解を聞かせて頂くという事、お話を頂かせて頂くという事はです、ただ頂いただけではなく、頂いたら心が開ける。
 今迄のあり方が間違っておれば、それを改める、それがおかげを頂きたいなら、私のいう事を聞けよと、言う事なんです、御話を、だから話を聞けば助かるのです、ただ聞いただけではいかん。ですから先ず、見易い事から一つ聞かせて頂き、その気になれば誰でもなれる所から、聞かせて頂こうじゃないかというのである、そこからです、神様の働きの印というのが、身近に頂けて来る様になる、ですから、神様のいう事を聞くというのが楽しくなって来る。
 この前の月次祭の時私は、この次から霊様えの御挨拶を八時からさせて貰う、それは私一人で御装束を付けて、改まって霊様に御取次を頂き、今晩の月次祭の事を願うという事、八時半の御祭前に十分か二十分の時間を頂いて、きちっと八時から御挨拶するから、皆さん八時からお参りになると、その霊様えの御挨拶も拝む事が出来るのだ。参って来いとは云わなくても、そんならと云う様な気持ちになって来るとですね。
 そこにそれだけ心を向けただけで神様の働きというか、おかげの印というか、私が今日はこうして、何時もより三十分早くお参りした事は、神様が受けて下さったんだなあと言う物を感じるのです。今日は私が御祈念をする時には、十人位お参りがあっていた、十人の方とご一緒に四神様に御挨拶申し上げさして頂いてその御挨拶の中に、皆さん頂かれたであろうと思いますが、大きなおいさみが二回続けてあったでしたね。
 皆さん、その時どう感じるか、たった三十分間早く、神様に打ち向こうていたら、その三十分をです、受けて下さったんだなあと、言う事が分かる。印が見えるから、見えないからじゃないのですけれども、それが、自分の心に感じられるという事なんです、打ち込むという事についてでも、月に四回の、御月次祭を奉仕させて貰うのは、お互いが真心をここに結集して、神様にお礼を申させて頂こうという、喜びを神様に、御取次して頂こうという御祭なんです。
 こと改まって御礼、御礼は朝晩に申させて頂いておるんだけれども、改まって神様にお礼を申させて頂こうというのが、御月次祭なんです、ですから御祭が始まってから来るというのと、御祭前にお参り出来るというのは、その事でも、打ち込んでおれば出来るんだと神様は、それを打ち込んでいる印だとも仰る、今晩は御月次祭だと一時間早く、ご飯を食べておいて下さい。
 一時間早く今日は野良仕事を切り上げて、さあ風呂も早く沸かしておけと言う様にです、そこに一家中が今晩御月次祭という雰囲気が、家中に出てくる、そういう雰囲気がです、おかげにならない筈がない、それとても、打ち込んでいなければ出来ない、そういう事なら皆さん開けるでしょうが、神様の云う事は聞かんで、私の云う事だけを聞いときなさい。云う事聞かんで、親が子供に云う様に、見易い事から聞かせて頂こうじゃないか。見易い事から実行させて頂こうじゃないか。
 そしてそこにです親の云う事を聞けばです神様の言う事を聞けば、神様は聞いて下さらん筈はないと言う様な印を、是に頂く事が出来る。その印が頂ける事が有難いあゝ神様生きて御座るなと、成程神様が今日も私のお参りを受けて下さったんだなあと、皆さん折角お参りなさるんですから確かにこの神様はね。一足でも無駄にさせんという神様なのですから、打ち向かうて来られたその心、その信心の内容と言う物を神様がお受け下さる、お受け下さったんだなあという手応えがなければお参りの楽しみが無い。
 それは何処に現われて来るかというと、形に現われてくることもあるが、大体心の上に現われて来るのです心の上に神様が、お受け下さったという手応えを感じる様になる。それが楽しい、たったこの位の事でも、云う事聞けば神様が、こういうおかげを下さるのであるから、もっともっと神様の心が知りたい、親の心が知りたいと云う事に、今度は意欲的になって来るその神の心が知りたい、親の心が知りたいという、ここに求道心いうか道を求めてやまないと言う、精進の心が生れて来る。
 そこから信心が少しがめつくなって来る。いわゆる御徳を受ける為ならばです、信心を分からせて頂く為であるならば、例えば人が笑おうが、そしろうが、その様な事は問題ではないと言う様な、私になって来る、御徳を受けていってる、その御徳を減らしたくない、そういう心に変われる、折角頂いた物を減らしては詰らん。けれど、こんな事していたら御徳減らす事になるのじゃないだろうか、と思う様な事がある、何時も御月次祭の時に、御結界の奉仕をします。
 久富建設の社長で御座います正義さんが、今朝の御祈念に参って来ておりました。今日に限って御理解が長かった、朝五時から御祈念を始めてから、御理解を閉じさして頂いて、皆さんの御届けが終った頃は、八時半になっておった。そこで正義さんが御届けする事なんです、実は今日自動車で山口県の萩の方え、慰安旅行する事になっていて、だから準備は出来ておる訳です、大体、六時には御祈念が終る、御理解が十五分かかって六時半か七時頃には行かれると思っていた、遅くても七時半にはここを立たれるという計算であった。所が実際は八時半です、それを慌てないですね。
 あの辺が素晴らしいと思います、今日は山口に行くから急いで御届けして、今日は山口に行くからよろしくお願いしますと、それでもいいのです、けれど正義さんの場合は、折角頂いておるものをですね、減らしたくない、いうならば貯金が出来ている物をいくらでも減らしたくない。元金には手を掛けたくない、折角使うなら利ぐらいで行きたいと思っている、そこを心で確かめている訳なんですね。
 今日に限って、先生がゆっくりとしておられると云う事は、是は神様の心に何かがあるぞと感じたんですよ、ですから、御届けの順序を早まってごめんなさいと言わずに、自分の順番を待って御届けされた、先生実はこうこうで御座いますけれども、もう時間が三十分過ぎております、業者の方が待っておれば、お許し頂いたと思うてまいりますが。もし皆が後から追い付けと、言う様な言付けでもして、先に行っておる様な事が御座いましたら。今日は取り止めさせて頂きますから、どうぞよろしくお願いしますもう、行き届いた事だなあ、是ならもう減り目が無い。
 決して温泉に行ってはいかん、遊びに行ってはいかんという事ではないけれども、それだけ確かめながら、それだけ慎重にです、何事にも信心になって行くならば。御徳をうけて行くと言うだけではなくて、頂いた御徳を、又減らすと云う事もなかろうと思うのです。帰って来るかなと思っておったら、帰って来ないから、おそらく正義さんが来んから、もう少し待とうと云う事に違いないのです。
 山口の萩に行って一緒に楽しい旅行が出来ておるだろうと思います、許されたという実感そこには途中いろんな事が、ありはしないかという不安が無い神様がどうぞ無事にと願う事もいらん、神様に許されて今日は山口に皆なと一緒に行動しておるのであるという、誰よりも彼寄りも安心して、今日一日を楽しまして頂く事が出来るのである、信心させて頂く者はそう言う様な所もお互い心得ておかなければなりませんですね。
 今朝の御理解にですね。神様がこの世に現われたい、助かりたいと願われた。この世に現われたい、この世に出たい。教祖生神金光大神の御徳によって御信心によって、神は世に出る事が出来る様になった、けれども、もっともっと現われたい、沢山の氏子の上に現われたいという願いと言う物を持っておられる、神様でもやっぱり助かりたいのです、私共が助かりたいのと同じ事、世に出たいと思われるのである。
 その世に出たい、助かりたいと願われる、その願いの現れが、人間氏子、一人一人の上に表れてくる。そこをある人は難儀と云い、ある人はふが悪いと云う、どうして自分の上にだけこんな不幸が続くであろうかという事に成って来る、そこに信心をさして貰い、真の信心を解らせてもらつて。先程から申します親の心が知りたい。神の思いが分りたいという精進さして頂く信心とです、神様が助かりたい。世に現われたいという、その願いとが上下から寄り添ってくる時に。
 神の願いが柏手の音が出る様な、音になって表れて来る、昨日でした、善導寺の久保山さんが、毎日お礼に見えられます、先生、本当におかげ頂いてからと、お話されるんです、私は甘い物はそう嫌いじゃないけど、わざわざ買ってまで食べたいと思わない位だった、ところが四、五日むしょうに甘い物が欲しい、自分でも可笑しい位にある、どうした事だろうかと思いながら。
 気が付かなかった、そして、ふっと自分の心の中に感じた事である、ほんなごとお父さんがあんなに甘い物が好きだった、もう是は、好きという位ではなかった、皆さんもご承知の通り、それこそ甘い物には目が無いというお人であった、本当にもうお父さん、甘い物にガツガツされるもんだから、甘いものがあったって、なおしとこうという気持ちが心の中に起こって来るんですね、そして家のお父さんは冷たい人だ、思いやりのない人だと、ばっかり思っていたのですが。
 私が四、五日甘い物が欲しい、甘い物が欲しいと思わして頂いたから、ふっと気が付かせて頂いた事は、お父さんが冷たいのじゃない、思いやりが無いのじゃなくて、私自身の方が思いやりが無かったんだ、冷たかったんだと解った、あれだけ霊様がお好きだったんだから、たまには甘々としたぜんざいの一つでも、ぼた餅の一つも作って、経ち日位は、お供えでもさせて頂ける様な 思いやりが無かった事を恥じ入りましたと、昨日は甘々とおぜんざいを作ってから、お供えさせて頂いたんですよと、それが、おかしいぐらい付いたものが落ちる様に。
 甘い物が欲しいと云う事がなくなったという、是は、どう云う事になりましょうかね、霊様に、家内の上に霊様も甘い物が食べたい、甘い物が食べたいと、助かりを求めておられる訳です、家内に、恐らく霊様になってまで甘い物が食べたいと、仰っているのじゃないのでしょうが、例えて解りやすく云うならば、氏子の真心を求めておられる、家内の真心を求めておられる霊様が。 
 そこでそういう形になって現われた、家内がそこに気が付いた、甘々としたぜんざいを作らせて頂いた、お父さんではなかった、私自身が思いやりが無かった、冷たかったんだと解らせて頂いたら、霊様も助かると同時に、久保山ふみ、その人も助かる事が出来るのです。神様でも同じ事、私なら私の上に糖尿病という病気に、私に現われておられる、糖尿病じゃないのだ、神様の現われなんだ。
 神様の思いがここに現われておられるのだ、この事に付いては皆さんもよく記憶がありましょうけれども、私が糖尿病だったおかげで一年間学院にも行かずに済んだし、私が十年余り足がなえてしまって足が立たなかった所が。さあ今晩は御月次祭だと言う事になると、三十分前位から立てる様になった、今日どこかえ行かんならん時には、もう先生は、スラごとじゃなかろうかと本当に、側におらんなら思うぐらいに、はっきりしておった、神様がそう言う風に現われておられた、いわゆる、神様が助かりたい。
 神様の願いが、成就する事の為にです、足が立たなかったり、糖尿病であったりそれはどういう事かと云うと、私を一年間御本部におやりになる事は、自分の一番の願いとするところの、難儀な氏子の取次、助かると云う事の御用が欠けるのだ、だから、ある意味合いでは涙を飲んで、糖尿病にもさせなければならんと云う事、皆さんが言って下さる、先生いやしいから、あれ食べちゃいかんとか、実は糖尿病その事は、何にも危惧の念というものは持たんのです。
 皆さんが、かしわがいいといえばかしわ、豚肉がいいといえば豚肉を、おさしみが良いと云えばおさしみをですね、神様がそういう病気を通して、皆に助かりたいという働きを求めておられる訳なんです、そこに私も助かって行く、皆なも助かって行く道が出来て来る、もし私が健康であったら、この御造営の最中に、一番忙しい時期に御本部に一年間、是はいやが上にも行かなければならなかったという事、そうしてみると、天地の親神様は私、大坪総一郎の上にです。
 助かりたい 助かりたいという願いが、神様がままになられたいという願いがです、それも広い大きな意味合いにおいて、助かりたいという願いが、私の身体の上に糖尿病として現われてるんです。であるしるしを、例えばこの前の前でしたかね、糖が全然出なくなったという日が続いたもう、是は見事に続いた、ですから、それをいよいよ、確信する事が出来るんです。
 前の日なんかそば饅頭を食べ過ぎたでも糖は出なかった、けれどもその事によってそれを確信する事が出来る、神様の御都合という事を、そういう神様が助かりたいと思われる、神様がいよいよ、この世に出たい、この世に現われたいと願われるその現れが私の上に現われる。是は私だけの事ではない、皆んなの上にその様な現われになって、出て来ておる事を、さあ医者じゃ薬だと云うのです、その難儀な問題を、まともにその事を頂こうとする事じゃなくて。
 その難儀な問題から、除けよう、避け様とする所に、御徳の受けられるはずがないと思う、本当にその問題に四つに取り組んで行くというか、そこから神様が助かっておられる、神様がいよいよ世に出られる準備が、一人一人の氏子の上に現われる、難しくなりましたかね。少し、信心さして頂いて、誰しもが受けられるという御徳をです、天地の親神様が一切の物を福寿界、無量のこの世の中にです、無量のおかげを私共が頂くという事は、もうそのまま神様の働きを現す事である。
 その現し得る人を徳者というのである、只お願いをしておかげを頂いて、現したというのは、一辺流なもの、勿論この御徳というのは、何時までも現していけれる、見てるという事はない、あの世にも持って行ける、この世にも残しておけるというもの。それを久留米の初代、石橋先生の例をもって申し上げました。それは久留米の二十六日の霊祭の、いろんな諸準備なんかでも、異様なものがあるんです。
 流石に御徳だなあと思うのです、私共の出社の又出社、と言った様な所にすら、それを感じ受けるのですから、直接の出社なんかには、もっともっと、そういう働きがあっておる事だろうと思うのです。 だから御比礼に浴する、お徳に触れる、お参りをさせて頂いて、金光様の御書き下げである所の色紙、なら色紙を頂いて来ると言う事は、いよいよ石橋先生を通して、金光様の御徳を受けて帰ってくるような感じがする。
 そういう意味で二十六日は、どうでも御参拝のおかげを頂かれて、石橋先生のそうした、御神徳に浴させて頂きたいと思っています。信心さして頂いて、おかげを受けると云う事その事によって、神様が分る、それにはささやかな、云う事を聞かせ様となさる、おかげをやりたい為にです。神様がささやかな条件を出される。毎日、日参して来いよとか、朝参りしてこいよとか。
 朝参りが続くと 朝の御祈念の前に御用の一つでも頂いてから、朝の御祈念を頂けとか、言わば這えば立て、立てば歩めと云う様な働きがです、一人一人の上にある、まだ這いも出来んのに歩け 歩けとは仰る事はないのです、這えば立て立てばさあ歩けと、それが親心なんです、だからその親心に添わせて頂こうとする願い。だから這えん事ない 立てん事はない、歩けん事はないという時に、どうだろうな御月次祭に、八時半の御祭にはお広前一杯に、是だけの人が集まっていると云う事。
 どうだろうな、八時の霊様の御祭には、もうお広前に立錐の余地もない位の、人が集まって居ると言う事、たったその位の事で神様の云う事になるのならば、少しは心を神様の方向に、向けさせて貰うて、その事に精進させて頂いたら、神様が現われなさる事と同時に、神様が助かられる事になると同時に私共も助かる、煎じ詰めて、神様が助かるとか、神様が世に現われたいと思し召すのは、私共を通してから世に現われたいと仰るという事、私共が限りないおかげを受けるという事なのです。
 氏子信心して、どうぞおかげを受けてくれよというのはです、取り次ぎ助かりたいのは、私共、神様のおかげでこの様に助かって参りました、という助かりを聞かれる時に、神様の助かりがあるのです、そこにそれだけの、神様が現われなさる事が出来るのです。神様の悲願というのは、そういう神様が助かりたい、神が世に出たいという事を、様々な上に 例えば久保山先生の霊と奥さんの事についても、申しました様に、霊様も喜ばれるであろう、自分も喜べる所のおかげが、一緒に頂けて行けるという事。
 神も助かり氏子も立ち行くという、そういう助かりに継がる信心を、いよいよ極めて行こうとする願い、そういう願いの信心を真の信心であると思うのです、その真の信心、真の御神徳が頂かれない筈がない。それこそ誰しもがおかげを受けられる、誰もが神心になれる事が出来る。誰もが神様を確信する力が頂けない筈がない。
 信ずる心が、真心が神心がいよいよ強くならせて頂く所に、御神徳と言う物は有難いものだなあ、こういう身近に神様の働きを現していけると言う事が有難い。同時にこの様な事が起っておっても、びくともせんですむ、驚かんで済む、神徳を受ければ心配は無いとおおせられる。どの様な、人が心配と思うような事の中にあっても、心の中は一つも心配していない、そういう生活の出来るおかげを、皆さん願わなければならんと思います。
   どうぞ。